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SB-2 (航空機) : ウィキペディア日本語版
SB (航空機)[えすべー]

ツポレフ ANT-40、または軍用名で知られるツポレフ SB(エスベー; - ''Skorostnoi Bombardirovschik'' - "高速爆撃機"の意)、 開発共同名TsAGI-40 は双発単葉3人乗りの高速爆撃機である。初飛行は1934年
この機体の名称には、SB 2M-100Aのように機種記号(SB)の後にエンジン名(M-100A)が続き、2とはエンジンの数を表す。このためSB-2という型があるとの誤解が生じたが、SBの機種記号を使った爆撃機は他にはない〔『世界の傑作機 No.133 ポリカルポフ I-16』 文林堂、2009年。 ISBN 978-4893191779 20頁。〕。
機体の設計は非常に先進的であったが洗練さには欠けており、搭乗員や整備員らをひどく狼狽させ、ヨシフ・スターリンからは「軍用機に些細なことは存在しない。」と指摘された。
SBは1930年代後半の世界の爆撃機では機数の上で最も大きな地位を占め、ソビエト連邦で生産された最初の近代的な応力外皮構造の航空機であり、おそらく1930年代中盤の爆撃機でもっとも手強い航空機であろう。様々な型がスペイン(スペイン内戦)、中華民国(日中戦争)、ノモンハン、フィンランド(冬戦争)そして第二次世界大戦初頭1941年の対ドイツ戦と広範囲にわたって活躍した。また、民間機用や練習機用、副次的な任務用など多岐にわたり使用されている。
スペイン内戦でほとんどの戦闘機を引き離すという良好な成績だったが、1941年までには旧式化した。1941年6月までに、赤色空軍(VVS)の爆撃機の94%がSBとなっていた。
==開発==
1933年、ソビエト空軍大臣(UVVS)は高速爆撃機の要求概要を提示した。この提案の研究は中央航空流体力学研究所(TsAGI)で1934年1月より始められた。SBはツポレフ設計局A・A・アルハーンゲリスキイ率いるチームにより設計開発された。ライトサイクロン星型エンジン搭載型(ANT-40 RTs)と、イスパノ・スイザ Y12en)・液冷V12エンジン搭載型(ANT-40 IS)の2種が計画された。MI-3(en)およびDI-8両航空機の設計で得られた技術は広く利用されていた。最初の2種のプロトタイプは、ANT-40.1とANT-40.2として設計された。 サイクロン搭載の試作機は1934年10月7日に初飛行し、大型翼が特徴のイスパノ・スイザ搭載機 (ANT-401〔 Gunston 1995, p.405.〕〔 ''Air International'' January 1989, p. 46.〕)は同年12月30日の飛行でより優れた性能を示した〔 Maslov 2007, p.64.〕。
2番目のイスパノ・スイザ搭載機ANT-402は生産を考慮されたプロトタイプで、その性能は印象的であった。それはしかしながら初期の問題に悩まされており、セルゴ・オルジョニキーゼ重工業人民委員の視察前に、試験要員が機体の欠陥を記載した張り紙でANT-402を覆ってしまうという事態を招いた。これらの張り紙を見たオルジョニキーゼはそれらの不足を検討するため、ツポレフをクレムリンの議会に呼び出した。この時ツポレフが表明した欠陥のほとんどは些細なものばかりであった。これを聞いていたヨシフ・スターリンは次のように述べたとされる〔 ''Air International'' January 1989, pp. 46-47.〕。
1935年末、ANT-402の飛行試験プログラムが完了する前に、SBと呼称された最初の生産機が製造ラインに乗せられた〔 ''Air International'' January 1989, pp. 47, 49.〕。SBは1936年に本格的な生産に入り、モスクワの第22国営航空工場とイルクーツクの第125工場の2箇所の工場で1941年まで生産された〔 Duffy and Kandalov 1996, p.80.〕。
製造において、流れ作業が修正の絶え間ない連続に悩まされたという事実にもかかわらず、1936年末までに約400機のSBが納品され(その多くがスペインへ引き渡された)、ソ連空軍の24個飛行中隊が新型爆撃機の慣熟の過程にあった〔 ''Air International'' January 1989, p. 51.〕。スペイン内戦において非常に優れた性能を示したことから、SBは「カチューシャ」の通称を得ることとなった〔 Maslov 2007, p. 75.〕。
1937年、SB爆撃機の供給及び現地製造権と、シュコダM1936 75mm山砲en)の製造権引き替えを目的とするソビエト・チェコスロバキア両政府間の協定が成立した。供給されたSBと、後にアヴィア B-71としてライセンス生産されたバージョンは基本的にはSB 2M-100Aであったが、アヴィア製はイスパノ・スイザ 12-Ydrsエンジンを搭載していた。機首の連装ShKAS機関銃と単装7.92 mmZB-30軽機関銃が取り替えられ、背部と下部の銃座にも同類の火器が装備された〔 ''Air International'' February 1989, pp. 100-101.〕〔 Maslov 2007, p.78.〕。
60機の機体が1938年中頃までにチェコスロバキアへ運ばれる予定であった。ライセンス生産の計画予定は、ますます危険な政治状態にもかかわらず着実に進行していった。1939年3月15日、ドイツ軍がボヘミア・モラビアを占領した時、チェコ製の機体は1機も届けられていなかった〔〔 。
SBの開発は、スペインにおける初期の戦訓を反映した改良を受けて同時に継続された。パイロット達をSBの飛行に転換するという問題に直面した際、練習機型のUSB(教習・複操縦用の開放式コクピットに機首を変更)が1937年9月に製作された〔''Air International'' February 1989, p. 81.〕〔 Gunston 1995, p.406.〕。 また、機首銃の旋回に限界があり、正面からの攻撃に対してほとんど使用されないという機体武装の問題にも直面した。後の機体はより広い射角を持つよう変更された。1940年からは背面銃座が閉鎖型のターレットに取り替えられ、同時に下部銃座も(有効に使うことは困難であったが)変更されている〔''Air International'' February 1989, pp. 80-81.〕〔 Maslov 2007, p.74.〕。
SBの機体も性能向上したエンジンの搭載により進歩していった。その最初はクリーモフ M-100(イスパノ・スイザ12Ybrsエンジンのライセンス生産版)搭載機であったが、これはすぐにより強力なM-100A、そして1938年からは更に強力なM-103に換装された。SB 2-M103のエンジン換装は、最初にM-100搭載機の前面ラジエーターが引き起こされている間に、下部にラジエーターを提げた改良型エンジンの取付けを行う〔 Maslov 2007, pp. 67-70.〕。1937年9月2日、M・Yu・アレクセーエフ(M.Yu. Alexeev)はM-103搭載のSBで積載量、の公認高度記録を飾った。彼は早い時期にという非公式記録を作っていた〔Duffy and Kandalov 1996, p. 82.〕。
1939年までに旧式化したSBの更なる性能向上の試みとして、SBの直接の代替機と専門の急降下爆撃機の2種の次世代バージョンの開発が認可された。SB-MNまたはMMNとして知られる水平爆撃機は翼面が減少した新型の翼を持ち、より強力なクリーモフ M-105エンジンを搭載されている。性能はスタンダード機よりも僅かに優れていたが、それでも放棄されてしまった。SB-RKと呼称された急降下爆撃機(ツポレフが失脚により投獄され、後に機体の設計者にちなんでアルハーンゲリスキイ Ar-2と再命名された)はMMNと類似していたが、こちらはダイブブレーキを装備していた。試験は好結果を収め、Ar-2は生産に移るよう命じられた〔 ''Air International'' March 1989, pp. 148-149.〕〔 Maslov 2007, p. 71.〕。
SBはもはや航空機技術の最先端ではなかったが、当時2年間でほぼ4,000機の増強を遂げたナチスドイツの脅威の高まりに対抗するため、ソ連は空軍力を増強しようと試み、1939年と1940年を通じて増産が続けられた〔。SBの生産は1941年初頭から段階的に廃止され、ペトリャコーフ Pe-2に置き換えられていった〔''Air International'' March 1989, p. 153.〕。モスクワからカザンへ疎開した第22工場では計5,695機が作られ、同時にイルクーツクの第125工場では 1,136機以上が作られた〔 Duffy and Kandalov 1996, p. 222.〕。3機のプロトタイプがツポレフ設計局で作られ〔、同時にチェコスロバキアのアエロ・ボドチョディen)とアヴィアen)でそれぞれ45機と66機が作られており〔〔、総計では6,945機が製造された。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「SB (航空機)」の詳細全文を読む

英語版ウィキペディアに対照対訳語「 Tupolev SB 」があります。



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